2010年05月12日

千葉からの報告(障害児・者の高校進学)

千葉からの報告(障害児・者の高校進学)

5月9日に千葉で開催された集会(障害児・者の高校進学問題)には、香川からは参加できませんでしたが、愛知、山口、宮崎から参加されました。「ワニなつノート」で報告されていますので、転載させていただきます。

集会の報告 (その0)

いつも集会が終わると、なんだかうまく言葉が出なくなります。
集会前に考えつづけたことと、たった数時間の本番の中身とに、
折り合いをつけるのに、時間がかかるようです。

その上、そのたった数時間のために、
愛知、山口、宮崎からきてくれる人がいて。
なんだか、自分が詐欺師になった気分になっちゃうんだなぁ(-_-;)

さて、ひとつ分かったことは、私たちは、
今までここでやってきたやり方で、
他の地域の方々の理解や賛同は得られなくても、
好きなようにやるだけかなと。

で、それを言葉にするには少し時間がかかりそうです。

でも、「手をかすようにⅣのメモ」を2年ぶりに読み返して、
その頃も同じことを思っていたのだと思い出しました。

その年は、浪人したMちゃんを
どうしても高校生にしなきゃと必死でした。
去年、Mちゃんは高校に合格し、
昨日はお母さんがきてくれました。

私たちは、「障害児者の高校進学」や「障害者運動」であるよりは、
ただひとりの子どもの思いによりそってきただけのような気がします。

結局、このメモは、ちゃんと形にできないでいたのですが、
いまなら、少し形にできそうな気もしています。
たぶん、このメモが、「手をかりるように、知恵をかりること」に
つながるようです。

とりあえず、また忘れないように、ここに載せておきます。


   □    □    □


≪手をかすように知恵をかすこと Ⅳ≫のメモ

「手をかすように知恵をかすこと」を、
私は今まで、健常者が知的障害のある人に知恵をかすこと…
として考えてきた。

でも、本当に知恵をかしてもらうのは、
誰が誰になのかと思うようになった。

誰もが、人と人とのつながりの中で生きるために、
本当に必要な知恵を、人類はまだ持っていないのだから。

「手をかすように知恵をかすこと」
初めてその言葉を聞いたのは、もう20年近く前になる。
それを「2001」に書いたのが8年前。
その後、Ⅱ、Ⅲを書きながら、その言葉の意味を考えてきた。

そして、今年も一次試験で定員内不合格。
追加募集でも、定員内不合格。
しかも「定時制高校」で、「16人募集」のところ、
受験者「1人」で、「合格者なし」だ。

繰り返されるこの子どもへの虐待をなんとかしなければ。

公立の教育機関である学校が、県民に約束した定員。
その定員を、その学校の教員が、勝手に減らして、
自分たちの仕事を減らしていいのか。

なにより、15歳の子どもへの虐待と差別をする側の教師として、
大人として、痛みも責任も感じないのだろうか。

席が空いているのに、座らせない。
その席に座った子どもの教育の仕事をするはずの教師が、
子どもを空いている席に座らせない。
それは、「ネグレクト」そのものだ。
教育放棄だ。子ども虐待だろう。
それは許される行為なのか。

それが許される場所で、
子どもの教育がどうやってできるというのか。

その学校の教師が、「いじめは許されない」などと言っても、
その言葉には、なんの意味も重みもない。
一番のいじめを堂々と行っているのが、
学校であり、教師なのだから。
そんな大人に、子どもを守る仕事、
子どもを育てる仕事ができるもんか。
まして、人権や差別について語る資格も知恵も持たない教師に
教えられる生徒が不幸だ。


定員内不合格は、高校教師独特の勘違いから、生まれている。

小中の教師は、義務教育だから子どもを選べないが、
自分たちは、自分たちの教える価値のある生徒を
選ぶ権利があると間違えている。

この問題は、障害や点数、内申書を理由に、
志と希望を持ち、最後の望みにかけた15歳の子どもの
心を打ち砕くだけではない。

彼らは、合格した生徒に対しては、
「ああいう人間にならないためにがんばれ」という教育を行うしかない。

そして、合格した生徒を、差別する仲間にする。

自分が「勉強して」いい評価をもらい、大学に行ったように、
生徒にも、自分と同じ価値を目指していくことを強要する。
「自分のような大人になれ」
自分はちゃんと勉強して大学にいき、自分の価値を高めてきた。
自分の生き方は正しかったと確かめたいのだろう。


15歳の子ども、いろんな立場、様々な境遇の子どもたちが、
この社会には存在するということを知らず。
その子どもたちの人生を支える仕事で、
自分が生かされていることを知らない。

自分が何をしているかに気づいていない。
「自分は知的教育を仕事にしている」と自分に言い聞かせ、
自分をごまかしている。

どんなにか子どもを苦しめているのかという認識の後に、
ようやく感情を伴う自責にたどりつくのだが、
その認識(知恵)が、そもそも育っていない。

どこで、どんな教育を受けてきたのか。
大事なことを教えてくれる人が、
その人生に誰一人としていなかったのか。

30年から60年近く生きてきて、
彼らは人とどんな付き合いをしてきたのか。

今まで子どもたちに何を教えてきたのか。

テストの点数の取り方だけを毎年教えてきただけなのか。

彼らは、何をしてきたのだろう。
何を見てきたのだろう。

もし、そうした人たちが、感情の通った人間に変わるためには、
無感覚に行ってきた定員内不合格と、
その子どもたちのその後の人生の苦労を、たどる中で、
感じ直すしかないのだけれど…。

そうして、無感情の教員になる前の、
子どもの時の心にもどっていくことが必要なのだけれど。

自分が行った行為で苦しめられた子どもたち。
その差別虐待によって、子どもたちが受けた傷を、
不利益を回復するために費やす時間と、エネルギー。

それを一度も考えたこともなく、
その実情さえ知らない加害者が、傷つくことはない。
感じることもない。
その人は、自分自身の感情を生きる主体には
なれないんじゃないかと思います。

いつも社会や、何かの要請や常識に合わせ、
言いなりになって自分を適応させる生き方。

私はそんな生き方をしたくはない。
そして、子どもたちにも、そんな生き方をさせたくはない。
だから、声をあげ続ける。
落とされても、落とされても、理不尽な目に合わされても、
それにうなずかない子どもと親がここにいる限り、
私も一緒



Posted by 会員  at 14:21 │Comments(0)

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