2008年06月28日

『花梨だよりNO10』 ー多田羅洋介2006年秋ー①

『花梨だよりNO10』 ー多田羅洋介2006年秋ー①
私たちの会の世話人のひとりの息子さんの記録です。
彼は香川県で知的障害がありながらも、10年以上公立高校に挑戦してきた”伝説の人”である


~花梨便りNO10~ メール  266年秋

【満中通信や善通寺西高通信からの発信】

 洋介の処遇のことで小学校や町教委・県教委との戦いに明け暮れた1年を経て1993年春、洋介は地域の満濃中学校(満中 まんちゅう)に進学した。その時たとえ点はとれなくても中学校の続きは高校だと考え、私たちの思いを学校の先生たちやまわりの人たちに伝えようと隔月に通信を出すことにした。「満中通信」である。ぼのぼの作業所の通信である「ぼのぼの通信」の原稿の一部として載せてもらうことになった。
 この通信は琴高通信(琴平高校を目指して浪人中)、そして善通寺西高通信(善通寺西高を目指して)と受検先の高校名をタイトルとして12年間発信してきたが、2005年春(4月号)に、洋介の高校進学がかなわぬまま、一応の区切りとして終了。新たに「花梨だより」として近況を書き続けている。

【香川での歩み】

①小学校入学する時、香川では洋介ほど重度の知的障害児が普通学級へ就学した例はなかった。それを支える組織がないのは当然として、一緒に訓練・療育に励んでいた仲間(?)である障害児の親たちからさえ「先生に迷惑をかけるのに何とも思わないのか、身勝手な親だ」と非難された。

②また、小学校次第はひたすら洋介のこと(対学校や対世間とどう付き合うか)、そして洋介を含めた自分たちの生活を作っていくこと(父親は脱サラ就農等)にエネルギーを費やし、それでせいいっぱいだった。坂出から満濃に引っ越して長炭小学校で過ごした2年間は四面楚歌、村八分の中で県教委へ日参した。
 それでも「Help me!」を発すると手を差し伸べてくれる人たちと少しずつ出会えるようになった。つらい時は海を越え、岡山の先輩たちに会いに行った。岡山では既に高校入試の取り組みが始まっており、県教委との話し合い(交渉)の場にも同席させてもらい、障害があったって高校生という夢を持てることを知った。洋介が6年生のときに「多田羅洋介くんを支える会」が出来て、親だけで洋介を支えなくてよくなった時の思いは言葉では言い尽くせない。

③洋介が中学校に入って高校へという思いが少しずつ形となっていく一方で、香川の若い親たちに、自分たちと同じ孤独な思いを繰り返させないために動き出そうと何人かで「障害児を普通学校へ全国連絡会・香川」をデビューさせた。
 ようやく若い人たちのために動く余裕が出来たというか、連綿と続く動きがない限り個の闘いや個の成果は世の中の仕組みに何の影響も与えないと思い知ったからでもある。ただ待っているだけでは洋介の後に続く子どもたちは現れなかった。せめて「この指とまれ」「ここに仲間がいるヨ」という声を発する必要があった。就学時健診が始まる前、初夏、第1回目の集まりを持ち、以来、一方で就学や学校生活のことに取り組み、もう一方で洋介の高校問題に取り組んできた。



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