2008年05月26日

普通学級の介助の専門性を考える・・・つづき

普通学級の介助の専門性を考える・・・つづき


本人の気持ちを聞かず、
介助者が代わりに「やってあげる」ではだめなのだ。

分かりきったことでも、
本人の気持ちを確かめながらやるのでなければいけない

子どもの絵や習字の作品も、
介助者の作品になってしまってはいけない。

時には、周りとの「トラブル」を
未然に防いでしまってはいけない場面もある。
周りに迷惑をかけることも、
周りの人たちを巻き込むことも介助の仕事だった。
なぜなら、《人間と人間を媒介する助け》が「介助」なのだから。

周りの人が、関わりたくないことを遠ざけてしまわないように。
援助が必要なこの子の生活も含めて、
私たちの学校生活」だと了解されるように願った。

なによりこの子が、
《わたしを生きる》ことが、
私たちを生きる》ことでもありますようにと願いながら
私はそこにいた。

偶然、同じ教室で出会った同じ年の子どもたちと、
毎日顔をあわせたり、話したり、遊んだり
日々を積み重ねていくこと。
一つ一つの授業と言う生活を積み重ねていくこと。
「この子には障害がある」と言葉で理解してもらうのではなく、
あたりまえの日常の積み重ねをさりげなくつなぐために、
間にいたのだった。


小学校2年生になる直前に亡くなった佳ちゃんのお母さんから、
一年生の授業の様子を聞いたことがある。
佳ちゃんは心臓病もあり、
目も見えないし耳も聞こえないように言われる重い障害があった。


その佳ちゃんの隣に座った子どもは、
授業中、佳ちゃんと手をつないで授業を受けていたという

それは誰が始めるともなく始まり、
隣に座る子どもが変わっても手をつないで
授業を受ける姿は変わらなかった。

今なら、それは「わたしが授業を受ける」ことが、
「佳ちゃんといっしょに授業を受けること」であり、
私たちが授業を受ける」ことになっていたのだと分かる。

大人の介助者にはどうしたってかなわない世界がそこにある。
やはり子どもたちが自然につながる関係をじゃましないで、
よけいなことをしなのが理想の介助なのだろう。


その時、そこに、偶然居合わせた子どもたちにとってだけの
宝物のような日々があり、
それは、「障害の理解」などという世界とは別の世界の話なのだ。

一度も春を見たことのない人に、
花や夢や命の咲きあふれる春を伝えることはできないのだから。




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