2008年10月05日
~共に生きる社会は、共に学ぶ学校から~
タイのおみやげ、ピンクの象さんです。
タイでは、象さんは神様の使者とか
みんなに、幸せがやってくるかも
共に生きる社会は、共に学ぶ学校から
6歳の春を分けるな!
シンポジウム&コンサート
・・・・・チラシより・・・・・
2007年9月28日、政府は前年12月に国連で採択された障害者権利条約に署名しました。障害者権利条約は、社会への完全かつ効果的な参加及びインクルージョンを権利として保障しています。
障害によって差別されることのない共生社会をつくるには、子どものころから共に学び育つことが不可欠です。しかし、日本では、障害のある子は、その種類・程度の基準によって分けられて就学しています。例外的に地域の学校で学んでいる子どもたちも、本来ここにいるべきでない子どもとして、様々な不利益をこうむっています。現在政府では、批准に向けて仮訳をもとに国内法制度の見直しを進めています。今この時期にアクションを起し、「6歳の春を分けるな!」の声を、国会に届けなければ、何も変わらずに批准されることも考えられます。
昨年、就学指導委員会を廃止し、親と子どもの希望にそった就学を支援する仕組みに変えられた東松山市の坂本市長と、障害者権利条約日本政府代表団の顧問として条約審議に深く関わってこられた東俊裕弁護士から、お話を伺い、地方の取り組みと条約(国際基準)の両面から、日本の分離制度をどう変えて行くべきかを提起していただきます。李政美さんの美しく力強い歌声に元気をもらって、分離教育制度からインクルーシブ(共に学ぶ)な制度へと転換させる声を大きく広げ、政府・文科省に届けていきましょう。
Posted by 会員
at 05:16
│Comments(5)
6歳の春をわけるな・・・のためには、
一人ひとりにちゃんとついてくれて向き合ってくれるたくさんの先生が必要になると思います。それも、専門の教育を受け、人格的にも温和で優秀な先生が。
幼稚園にも、そんな子たちを受け入れる園ときっぱり拒否し入園させない園がありますが、受け入れる園は、やはり伝統的に先生も育ってきているし、土壌がしっかりしているような気がします。
今の小学校のふいんきのまま、同じクラスに入れてしまうことは、その子にとって幸せなんでしょうか?
ともに学ぶ事から得るものも大きいと思いますが、しょうがいのある子どもの育ちを考えると、その子ら一人ひとりに合ったカリキュラムできちんと育ててもらうような学級に入れる事も大切なのではないでしょうか?
何も知らず、のコメントですみません。
(自閉症の子どもを日々見守っている仕事をしているまんみでした・・・)
なかなか、「共に生きる」ということの意味を理解するのはむずかしいと思います。だから、今の「ワタシタチの戦い」が存在するのだと思います。
「一人ひとりにちゃんとついてくれて向き合ってくれるたくさんの先生」は必要ありませんよ。
目の前の子どもに誠実に向き合ってくれる先生がいるだけでいいのです。
「専門の教育」とは、何の専門の教育でしょうか?
「0点でも豊かに学校生活をすごす」ための
「専門家」がいたらいいなあとは思います。
でも、「人格的にも温和で優秀な先生」ばかりじゃ、学校は面白くないんじゃないかな。
「ともに学ぶ事から得るものも大きいと思いますが」と書かれているけれど、
それが、本当にどんなに大きいか、
子どもに聞いたことはありますか。
6才の子どもが、命がけで通うほどに
「大きなもの」がそこにはあるんだけどな。
「その子ら一人ひとりに合ったカリキュラム」
私の大好きな子どもたちに、受けさせたいと思う「一人一人に合ったカリキュラム」を、
私は見たことがありません。
目の前の子に誠実に向き合ってくれる先生が、たくさん必要っていう意味です。
障害のある子が小学校にどんどん入ってこれるためには、先生も人数が必要でしょう。
入学しても、先生が、障害についてちゃんと理解しておいてくれないといけないと思います。(専門の教育というか、そのしょうがいについての事を勉強してくれてないと話になりません)今、小学校の中には、4時間パートの先生がついていたりしてます。親としては経験のある、理解してくれる先生にみてもらいたいと思うのじゃないかと。
優秀というのは変だけど、温和というか、たとえば、自閉ぎみの子が靴をはいてとびだしていったとき、ただ怒鳴ったり、足をたたくことは、ありがちですが、それじゃあ困るような気がします。
精神的に弱い子には、萎縮させないような、
普通の子をみるより、より気配りのできる先生に見てもらいたいと思って。
私は20年も前になるけど、ともに学ぶ小学校に教育実習に行きました。
4年生で、聴力、下肢不自由の子もいましたが、確かにいじめはありました。
しかも、表面はとてもきれいだったんですが、裏で。
子ども同士の世界は甘くないんで、よほど、しっかりした先生がついていて見守ってほしいな~と思います。普通のクラスより以上に。
一人ひとりに合ったカリキュラムは、教育の基本ではないでしょうか?成長していくために。自立するために。将来にわたって何か生きがいをみつけるために。
「6才のこどもが、命がけで通うほどに、『大きなもの』がそこにはあるのだけどなあ。」
ワタシは実際に子どもを普通学級に通わせていたので、この言葉の意味の重大性がとてもよくわかります。そう、彼らは生き延びてきたのです!
まんみさんも、2回目のコメントありがとうございます。(ペコリ)
ワタシは「公の教育」が行わなければならないことは、「人間は人間の中にいてこそ人間になれるのだ」ということをみんながわかることだと思います。