2008年07月01日
『花梨だよりNO10』ー多田羅洋介2006年秋ー③
朝日新聞1996年(平成8年)11月に連載された記事&1998年(平成10年)5月10日の記事
~すこし途中下車~
『多田羅くん16歳』②(1996年10月29日)
<アルバムに、何の不安もないひとこま>
・・・・前文略・・・
アルバムをめくると、産院ベッドで父親に抱かれている生後数日の洋介の写真があります。親も子も何の不安もない幸せなひとこま。その数ヵ月後、結節性硬化症という重い病気にかかりました。
「治療法はない。重度の知的障害を伴うだろう」。医者の宣告は、若い親にとって衝撃的でした。一日に何度も彼を襲う発作。そのため、愛らしいかった顔は無表情になり、抱いた時の手ごたえは消え、体はグニュグニャしてきました。発作を抑えるための治療は延々と続き、それはまるで出口のない長いトンネルのようでした。
二歳の時、やっと発作がおさまり、洋介は再び成長を示すようになりました。発病前に比べ、ずっと遅いテンポです。それから訓練の日々が始まりました。祖父母まで巻き込んで、せっせと高松にある訓練施設に通うのが日課になりました。ヘトヘトでした。
ある時、たった一時間弱の訓練を受けるのに半日も費やすことはやめにして、近所の子供たちが遊ぶ公園で訓練することにしました。そして、気がつきました。
この方が、洋介も楽しいし、家族も楽だ。
それから子供たちのたくさんいる保育所に通わせようということになりました。保育所では子供たちがばたばたと部屋の中を走りまわっていました。当時、洋介はハイハイする気配もなく、いつも床に転がっていましたが、子供たちの姿を目で追うようになり、そして、手のひらで床をパタンとたたきました。「歩きたい、ぼくも」とでも言うように。
そのうち、はうことが出来るようになったある夕暮れ、だれもいない自宅の薄暗い部屋で彼は立つ練習をするようになりました。何度もしりもちをつきながら、何度も立ち上がろうとしている彼の姿は感動的でした。歩き始めは三歳、保育所に入って三ヶ月でした。
洋介の場合、必死になって訓練してもその成果がつかめず、親は不安で、またしても出口の見えないトンネルのようでしたが、保育園は違っていました。手ごたえがありました。
同じ世代の子供たちから生きる喜びを学ぶ、これは洋介のこれからの進路を決める我が家での大原則になりました。
(洋介の父 記)
タグ :友育ノーマライゼーション
Posted by 会員
at 12:11
│Comments(4)
「多田羅くん28歳」です。
そして、私の娘は19歳になり、今年で高校受検4浪です。
この県は、ほんとうに悲しい県です。
去年度が初めてだったんだと思いますが、県内すべての公立高校・私立高校・高専がプースを構えます。
私立の場合は特にですが、公立でも、それぞれの学校の性格みたいなのを垣間見ることができました。文化祭など学校外の人が校内を見に行く機会のある日はいつかを聞くこともできました。
去年は真ん中のが中3だからというので行ったのだけど、末っ子についても話聞いてみる気のある学校・話を聞こうともしない学校…くらいは雰囲気掴めました。よろしければ行ってみてください。
私は『自分のこと』で今年度は行けないのですが,『優しいパパ』の役しかしたがらないウチのダンナでも、パンフレット集めるのとか、文化祭などの予定を聞いて来る事はしてくれるんじゃないかと思いますから、行って来て貰おうと思います。
『きらめく香川の高校フェアー』は、今年は8月16日にあるのですね。
昨年は、愛媛で開催された『障害児を普通学校へ 全国連絡会』の全国交流会の日程とダブルブッキングしていたので、参加できませんでした。
一昨年は、受検する会員さんたちが参加しました。
その時に、教育委員会や高校の先生など懐かしいお顔に出会い、お話させていただきました。
やぶくんも、ぜひご参加ください。わたしたちは、失敗ばかりしていますが、意志があれば、可能性は広がっていくと思います。ぜひ、娘さんも一緒に!
中学校卒業しちゃった人には、まず知らされないだろうと思いまして、ここに書かせていただきました。