2009年08月07日
知恵袋の”ワニなつノート”より
”ワニなつノート”より転載
コミュニケーションの前に、コミュニオンがある】
(☆ メモ2)
「健常者コミュニケーション」に合わせられない子を、
最初から「分けてしまう」つもりなら、
その子を含めた「新しいコミュニケーション」は
いつまでたっても生まれません。
百数十年間の特殊教育で、それは生まれませんでした。
そして、同じ理由で「特別支援教育」でも
「新しいコミュニケーション」は生まれません。
「この子を含みこんで一緒に生きよう」と、
「ようこそ、この社会へ」と言えるコミュニオンがないから、
この子の気持ち、行動を、「分からない」という。
だから、幼稚園や小学校1年の「子どもの行動」を、
「問題行動」と表現してしまうのです。
「先生」という職業の人は、
「問題行動」という言葉を聞いただけで、
その子は「大変な子ども」と理解するでしょう。
「新しいコミュニオン」では全く違う言葉で表現します。
この社会でいう「問題行動」は、
そこでは、「適応行動」と翻訳されます。
その子は、「がんばっている子ども」と理解されます。
☆ ☆ ☆
特殊教育のなかで、
情熱をもって子どもたちとつきあってきた人たちは、
「いや、この子たちとのコミュニケーションがない
なんてことはない」と言うと思います。
「特殊学級」のなかで、「養護学校」のなかで、
そして「施設」のなかで、私たちは子どもたちと
「コミュニケーション」してきたのだと。
この子たちは、なんのコミュニケーションの手段もない
「盲ろう」者が、「暗い海の底で一人ぼっち」でいるのとは、
ぜんぜん違うのだと。
それは本当だと、私も思います。
私が学生のころ、心から尊敬し、
自分もこんなふうな人間になりたいとあこがれた人は、
特殊学級の教師だった近藤益雄さんでした。
でも、特殊学級での「コミュニケーション」は、
やはり、「分けられた場」でのものでした。
そこにいたのは、
「分けて、コミュニケーションしてあげる存在」
としての「障害児」でした。
そこにいたのは、
「分けられて、コミュニケーションしてもらうために
ひたすら健常者社会・健常者コミュニオンに適応する存在」
としての障害児でした。
いや、「分けただけじゃない、交流だってあった」
という人もいるでしょう。
でも、それも同じことです。
そこにいたのは、
「分けて、≪交流」してあげる存在」
としての「障害児」でした。
そこにいたのは、
「分けられて、交流してもらう存在」
としての「障害児」でした。
そして、それを当たり前と思う人々で作られた社会。
それが、日本という社会の「コミュニオン」のあり様でした。
「一緒がいいなら、なぜ分けた」という言葉は、
そのからくりを、分けられた子ども本人が言い当てた言葉です。
だから、この社会では、
「障害のあるふつうの子ども」との
コミュニケーションが未熟なのです。
「遅れている」のは、ひとり・この子ではなく、この社会。
「成長・発達」しなければいけないのは、
ひとり・この子ではなく、この社会でした。
私のなかで近藤さんを人間として尊敬する気持ちは、
いまもまったく変わることはありません。
でも、「これから」を生きる子どもたちに必要なのは、
まったく新しいコミュニケーションなのだと思います。
幼い子どもに、「分けるまなざし」も、
「分けられるまなざし」も、
大人が教えてはいけないのです。
☆ ☆ ☆
福島智さんは、いま東大の最先端技術研究所の教授です。
盲ろう者で、大学の教授になっているのは、
世界でも福島さんただ一人だと言います。
なぜ福島さんが選ばれたのか。
先端研の20人の教授たちが
21世紀の「先端」とは何かを議論したときのこと。
『20世紀は広大な宇宙へ、あるいは極微の素粒子へと、
外へ外へと向かうのが最先端だった。
だが21世紀は、人間の、自分たちの内部へ、
より複雑なもののなかに分け入っていくのが先端科学ではないか、
との意見が多かった』
人間のなかに入る。
複雑な分野に分け入るにはどうするか?
『極限まで行ったとき、些細なことが消えて本質が現れる。
極限状況のなかにいる、すばらしい人材はいないか、探したんです」
(『ゆびさきの宇宙』より)
そこで見出されたのが、盲ろう者である福島さんでした。
「盲ろう」という障害を持ちながら、
シャバでふつうの生活している福島さんが「最先端」であるのは、
まさにその通りだと思います。
そして、福島さんの生き方とそこから学べるものが
21世紀の最先端の研究課題の一つであるなら、
まさに「0点でも高校へ」も、同じように
世界最先端の研究課題だと、私は確信します。 ☆
【コミュニケーションの前に、コミュニオンがある】
つまり、
【コミュニケーションがないのは、コミュニオンがないから】
であり、
コミュニケーションを求めるのであれば、
個人を抜き出すのではなく、
一緒に生きる社会(コミュニオン)をまず創ること。
子どもが共に育つコミュニオンがあれば、
そこから自然にコミュニケーションは生まれる、
ということです。
「0点でも高校へ」は、その第一歩です。
Posted by 会員
at 03:07
│Comments(4)
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コミュニオンって何ですか?
「コミュニオン」とは「一緒に生きる社会」のことだと思います。
「一緒に生きる社会」があってこそ、コミュニケーション能力は開発できるということだと思います。
鶴見俊輔さんが朝日新聞の対談の中で
使っていました。
(鶴見)
【カトリックは共有、聖餐式を指す「コミュニオン」という言葉を大切にする。
最後の晩餐でキリストは、パンとブドウ酒を弟子に分け、しぐさで意思を伝えた。
これが教会のミサの形になった。
花を持った釈迦の意図を汲み取った一人の弟子が、ほほ笑んだという「粘華微笑」(ねんげみしょう)と同じで、最後は言葉を超えるんだ。
コミュニケーションの前にコミュニオンがある。】
・・・という訳で、本来の意味は、
「共有、聖餐式を指す」ということです。
私たちは、コミュニケーションという言葉を、
ほぼ「日本語」のように理解し、使っているもりでいますが、
そのもとになっている、「コミュニオン」を知らないんですよね。
だから、「個別」で「コミュニケーション」を教えるなんていう、おかしな説明を、疑問に思わなかったんだな~と、
そんなことを思いました。
ほんとうに、障害のある子どもを持ったおかげで親の私は賢くなります。ものごとを知ることが増えるのは、いくつになっても嬉しいものです。