2009年04月01日

千葉~ワニなつノートより

千葉~ワニなつノートより

らびさんhttp://koukousei.ashita-sanuki.jp/は、昨夜寝室に行ってからも室内電話をリビングにいるmamamにかけてきて、
「ガッコウハ、アル?」
と聞いたそうです。
mamaが
「ないよ。。。ダメだったよ失恋」と答えると
「ガクッダウン
といって電話を切ったそうです。

ミラクルらびさんうさぎ、わたしたちはあなたを支えつづけます。それが大人としての責任であると思っています。

お願いだから先生たち!!子どもの立場にたってしっかり仕事をしてください。フッン

定員内不合格者を出した校長先生は、さすがに「適格者主義」などと言う言葉は使わなくなったけれど、そのことの内容はしっかり述べてくださいました。

<ワニなつノート>

100人の「0点でも高校へ」  0点でも高校へ
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障害のあるふつうの子どもたちも中3になると、
ふつうに「高校に行く」と言います。

「うちの子はそんなことは言わない」と
親が思っている場合でも、
100%親の予想を裏切ります。

「うちの子は、二日間、5時間の受験と面接なんてとても無理」
と親が言う場合でも、
100%親の予想を裏切ります。

もし賭けるなら、私は親の言うことには1円も賭けません。
全額、子どもに賭けます。

「子どもか、はらたいらさんに全額」(・o・)


そして、受験が不合格になり、
自分の番号がないと分かったとき、
子どもよりボロボロに泣いている母親に、
子どもは謝ります。
「ごめんなさい。ごめんなさい」と謝ります。
何度も自分の番号を確かめます。
何度も何度も何度も確かめます。

高校を不合格になるということ。
自分の受験番号がないこと。
親が泣いていること。
そのすべては、自分の責任だと、誰よりも自覚しています。

「自分のせい」だと、分かっています。
「自分が悪い」と間違って、理解しています。
それは、ある意味では、普通学級で過ごした「成果」であり、
いまの間違った学校教育の結果でもあります。

だから、私たちは子どもたちにちゃんと伝えます。
あなたが悪いんじゃない。
あなたはせいいっぱいがんばった。
悪いのは、そのがんばりが一つも分からない、
頭も性格も悪く人権意識もない高校の先生だと。

そして、高校に受かった時、
彼らはそれが「自分のがんばりの結果」だと
深く受けとめることができます。

自分がどれほど夢見、どれほど努力し、どれほどがんばったか、
誰よりも誰よりも本人が一番分かっています。

その深い理解の分だけ、
高校に受かったことはその子の、その子だけの深い自信になります。
生きる自信になります。
9年間普通学級でみんなと一緒に過ごしてきたことの正しさの証明、
自分がふつうの子どもであることの自信になります。
その価値の大きさを、私たちは図ることができません。

自分で自分の苦労を背負う覚悟
自分で自分の人生を生きる自覚
自分でこの国の差別教育制度に打ち勝つ経験

1回落ちても、2回落ちても、3回落ちても、
4回落ちても、5回落ちても…。
1年待っても、2年待っても、3年待っても…。

そのたび自分を、ありのままの自分を応援してくれて、
みんなと同じ高校生になれると支えてくれて、
夢見ていいと、夢見続けていいと応援してくれる人がいる。
そのことが、何よりその子の生きていることを支える。
その子が、障害を理由に不合格にされる理不尽さを、
差別を、その社会で生きるその子の生きることへの和解と再生の物語を、
その子の心に根付かせ、支えるために。

もちろん、15、16の子どもにとって、
その後に「合格」という夢の実現が待っていればいうことはない。
それらの「すべて」が、その子のまるごとの自信につながる。

わたしたちは、それほどの自分を支える「応援」をもらったことが
あるだろうか。

だから、たとえ3年、5年、挑戦しても結果が出ないことがあっても、
その「本人が自分の意志で高校生になりたい」と、
同世代の同じ夢を見続けた日々と、
それを支え続けてもらった宝物は、かけがえのないものになります。

☆   ☆   ☆

この文章を書いて改めて分かります。
なぜ「高校が一番楽しい」と言われてきたのか。

今までは、「高校になると、周りの生徒も大人になるし
自分も大人だという自覚が生まれるし、
高校の先生も生徒を大人扱いするからかな」とか、
思いつきで話してきました。

でも、さきの文を書いてみて、
あらためて、「障害をもつふつうの子ども」たちが、
その「障害」によって自分が「できないこと」、
そのことによって「仲間に入れないこと」
「一緒にはできないことがあること」
親切のなかにあっても障害によって自分が「疎外」される部分を、
十分に、痛いほど、子ども時代を通じて、
感じ重ねてきたのだと分かります。

それは、たとえば「障害児」じゃなくても、
野球やサッカーやバスケが苦手な子が、
ゲームに入れてもらったとしても、
自分が本当にはあまり戦力になっていないことを、
十分に分かっているのと一緒。

みんなの中で、自分が、いちばん「できない」分野を、
子どもは誰でも自覚しています。
それはまた、自分よりできる子どもに驚き、
あこがれ、感心することでもある。

私が謙にあこがれていたように。
浅井にあこがれていたように。
やっちゃんが、縄跳びの得意な今野くんに
あこがれて跳べるようになったように。
プロ野球の選手やJリーガーにあこがれるように、
身近な同級生にあこがれることがあります。

障害があると、難しいことは分からないと思われたり、
そんなことは思いもしないと思われたりするけれど、
それは小澤さんの「認知症の説明」のように、
わかるに決まっていることなのだ。
人と人のなかで「生きている」のだから。
言葉にしようがしまいが、
言葉での質問に答えようが答えまいが、
多くの人が感じることは、
本人が感じていることに間違いはないのだ。

空気中の酸素がどれくらか、に答えられなくても、
酸素があることは分かっているにきまっている。


そうして、高校受験…。
落ちたのは自分のせいだと感じる。
「高校?無理だよ。試験があるんだから」
「勉強する」
「勉強したって、点がとれなきゃ」
「がんばる」
「がんばってもなー」
そういう会話を通して。
またはそういう中学3年生の空気を、一年間すえば、
だいたいのことは誰でも分かる。
中3の空気は、酸素と受験が同じくらいの割合だから。

そうして、9年間、学校の中で感じてきた、
劣等感というか苦手感、自分の自信のなさを、
高校に向かうこと、高校に受かることで、
すべていったん取り戻す形になっているのだ。

それを取り戻すためなら、
仲間と同じである実感を取り戻すためであるなら、
1年浪人しても2年浪人しても、
高校生になりたいという意欲も希望も、
少しも色あせないのも当然のことなのだ。

私たち大人が考える、「高校にこだわらなくても」という次元とは
まったく別の、自分の子ども時代の人生をかけての戦いであり、
挑戦であるのだ。

それを応援しないで、
子どもの何を支えることができるというのか。

だから、私たちは、0点でも高校へと言い続ける。
せいいっぱい応援し続ける。
この間違った、高校受験という制度がなくなるまで。

そうして、高校生を勝ち取り。
充実した高校生活を送るのだ。

☆   ☆   ☆


「0点でも高校へ」
わたしは、ここで100人の子どもたちと出会ってきた。
100人の「高校進学」の道のりを見てきた。
「0点でも高校へ」
100人の子ども一人ひとりに向けられた差別と
真正面から向き合ってきた。

100点の子どもが100人いても、
たかが100人の一人一人にしかならないけれど、
「0点」の子の一人一人が、受験という差別に勝ち抜いて、
100人集まるとき、その存在は、
これから生まれてくるすべての子どもたちの希望の光そのものだ。
子どもを、たかが点数や障害で分けるな。けちくさい。
学びたいという子どもすべてに、
学校と先生くらい準備しろ。大人だろ。
あんただって、一人で大人になったんじゃないだろう。
一人で学んできたわけじゃないだろう。
人を分けるな。
どっちみち、すべての人がたかが100年もたたずに、
みんな別れ別れになっていくんだから。







Posted by 会員  at 06:09 │Comments(0)

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