2011年02月05日
「節分」と「オニ」についての授業
今年は、この家に住むようになって初めて豆まきをしなかった。豆は用意していたのだけれど・・・・。夕食を食べたら疲れてオコタで眠ってしまっていた。
でも、節分の朝にはお気に入りの鬼の花びんに花を活け、お正月のお花とチェンジしました。
ということで、我が家では玄関で「オニ」が出迎えてくれます。
”「節分」と「オニ」についての授業”のが届いていたので転載します。
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障害者権利条約批准・インクルーシブ教育推進ネットワークML
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北海道の吉田です。
今日は「節分」で私の職場の小学校でもあちこちのクラスで「オ二わぁそとぉ! 福わぁうちぃ!」と豆まき(北海道は落花生です)をやっていました。
しかし、なんの疑問もなく「オ二は外!=オ二は排除せよ!」との大合唱にどうしても加わりたくないと思ってしまうのは、インクルネットに参加するみなさんの思いでもあると思います。
今日は1年生の学級で「節分・せつぶん」の授業をしました。
「節分」とは何の日かを話した後で、本物の「オ二」を見たことがあるか問いかけたら33人中1人だけが、5歳のころに自動車と一緒に外を歩いていたオニを見たことがあると語ってくれました。それ以外は、「本物」は見たことがないといいます。「にせもの
」なら幼稚園、保育所、学童などで何度も見たことがあると(笑)
(オ二は自分の心の中にいると指導している教員もいますが・・)
また、オ二は本当に悪者なのかと問いました。子どもたちは、桃太郎のオ二もお金や宝物を盗ったから桃太郎にやられたんだと言います。私は、オ二が持っていたお金や宝物はオ二が働いて蓄えたモノではないのかと揺さぶりをかけました。しかし、何人かの子どもたちは、違うぞ、オ二が盗んできたものだと言い張ります。
その後、『おにはうち!』(中川ひろたか 文、村上康成 絵、童心社)という絵本の読み聞かせをしました。あまんきみこの『おにたのぼうし』を使いたかったのですが図書室になくて、たまたま見つけたものです。『おにたのぼうし』と同様に、「オ二は外
!」との排除の論理ではなく「和解と共生」をテーマにしたお話だったので採用したのですが、「ほんとは、おにも、わたしたちとなかよくしたいのかもしれません。いっしょにあそびたいのかもしれません」という一文があり、子どもたちから「(オ二は悪者
なのに)ややこしいなぁ」という声が上がりました。本物のオニを見たことがあると語っていた子は、あのオ二は事故に遭わないように車を守っていたのかなぁといいました。
その後、大豆をフライパンで炒り、まくことなく熱いうちにみんなで食べました。初めて食べた子も多く、噛めば噛むほど味が出る炒り大豆に子どもたちは満足そうでした。
とりとめもない授業でしたが、「排除ではなく和解と共生を」との考え方は多様な価値観を受容していくことでもありますし、「同じ場で共に学ぶ」インクルーシブ教育の基調にもなることではないかと考えた一日でした。
授業後の感想では「豆がうまかった!」というのが圧倒的でしたが(笑)
そうそう、昔話に登場する「オ二」(怪物)の源流は先住民族であるという見解がありますがかなりの説得性をもっていると私は思っています。なので、少なくても北海道では安易に「オ二は外!」なんてやるべきじゃないと「教条」的に思ったりもしています。
吉田様、東京の竹内といいます。
大変たのしい授業の報告、ありがとうございました。
「(鬼は悪者なのに)ややこしいな」という生徒の声が、とても面白かったです。
生徒たちにとっては、善と悪しか頭になく、どっちかはっきりして、というのではないでしょうか。私たち大人も、普通は、そう思ってしまいます。悪気はなくても、単純が、一番簡単で楽ですから。それが恐いなぁと思いました。「それっ!」と飛びつく。
善か悪か、発展か後退か、等など。
二分法(二項対立)はわかり易くとっつきやすいので、それに陥りやすいものだ。
ある方が、最近、お話の中で、「その考え方(二分法・二項対立)をやめて、三分法で考えてほしい」といわれ、「ふーむ」と感心したことを思い出しました。
私も、ついそう考えてしまうし、小さな子供は更に、「善と悪」しかない、という二項対立で考えているので、先生の話に困惑してしまったのではないか?と思いました。
もう一つ、「善でも悪でもないものがあるんだ」という風に考えをめぐらすこと。そうでないと、必ず争いが起きてしまうように思いました。
インクルーシブのメール、いろいろ考えさせられ勉強をさせていただいています。「健常者中心主義」「男性中心主義」などの中心主義も危険ですよね。「中心主義」も、「二分法の一種だ」と聞きました。
「鬼の源流は先住民」という説。 不都合なものを鬼にして(人格を認めず物体化して)しまう発想は恐いですね。心したいと思います。教えてくださり有難うございました。
大阪の鈴木です。
私は、チョムスキー派の言語学・言語習得論をやっていて、また、人間の認識のためのストラテジーにも、
日頃から興味があって、吉田さんの楽しい報告(小学校の先生は大変だと思いますが、楽しい部分も
ありますよね(笑))に、触発された、竹内さんの分析も、興味深く読ませていただきました。
今は、進化論の知見も言語分析に入れざるをえない状態になっていて、昔ほど脳天気にはやっていられませんが、
チョムスキー派は、基本的には、「(経験論に対する)生得主義」で、私は、以前から、お話の「二分法・二項対立」は、
人間が生まれながらに持っている、世界認識のための、重要な一部を成していて、だから、9.11を受けて、ブッシュが、
テロリストに組するのか、アメリカと共に正義のために戦うのかといったとき、有効に反論できる人はいなかったと思います。
しかし、竹内さんが、「その考え方(二分法・二項対立)をやめて、三分法で考えてほしい」と言われて、感心したと
おっしゃっているのは、私は密かに、人間が何故か、直感的には、もう忘れてしまった、「三分法」が、実は、あったのではないかと
思っているわけです。私見では、、「グー、チョキ、パー」にわずかに残っている、「三分法」には、人間の叡智が含まれていると思っています。
つまり、、「三分法」の世界では、絶対的な「勝者」も「敗者」もいません。勝ったり、負けたり、です。
一方、「二分法」は、この混沌として、つかみどころのない世界の、かなりお粗末な、認識方法です。
私見では、古代、人間は、叡智に満ちた「三分法」を持って、平和に暮らしていたのに、いつにまにか、
愚かにも、それを忘れ、埒もない、「二分法」に、心を牛耳られているといった状況が、残念ながら、今日的な状況でしょう。
問題は、如何にして、「三分法」の栄光を取り戻すかにあるでしょう(笑)。
香川の「らび」です。
「三分法」いいですねえ
「特別支援教育」か「合理的配慮をされないままの普通教育(ダンピング)」かの「二分法」ではなく、「合理的配慮をされた通常の学級でのインクルーシブ教育」の、「三分法」が現在行なわれている障害のある子への教育であることを認めて欲しいです。
ワタシは障害があるけれども通常の学級(普通学級)に在籍してインクルーシブ教育を現実としては受けていたのですが、なんせ、今の法律の元ではそんなインクルーシブ教育は存在しないということらしく、そこで実践されてきた貴重な汗とナミダの教育のスキルは蓄積されてみんなで共有されることもなく、なかったこと(いや、もしかしたら、あってはならないこと)として、闇へ葬り去られていっているらしい今の現状はあまりにもインクルージョン実践者としては悲しいです。
Posted by 会員
at 02:40
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