2008年03月14日
2003年7月12日発行NO.25『共に生きる』Ⅱ
1999年9月11日、30歳で亡くなった金井康治さん(東京障害者労働センター職員)の追悼の新聞記事(朝日新聞1999年9月)を載せています。
この新聞記事の写真は、<1981年5月。ランドセルをひざに抱えてうれしそうだった小学校初登校の日=著書「康ちゃんの空」から>、とってもうれしそうな顔をした小学生の金井さんが写っています。
”障害者の通学へ道 金井康治さんを悼む”
「普通学校」って何?重い問い
「地域の育ちの場」なお遠く
母が脳性まひで車いす生活の金井さんを普通学校に行かせたいと思ったきっかけは、弟二人が地域の学校に通っていたからだ。、「何とか兄弟を分けないで育てたい」と1978年、八歳の時に自主登校を始めた。小学校に通学できたのは1981年の5月になってからだった。
「”康治君はあれができない、これができない、できるようになったら入れてあげる”と不可能な条件を出されたことへの怒りが、原動力でした」と母は語る。
この記事は「金井君が提起した問題の解決は、まだこれからです」と締めくくられている。
この記事から8年が経った・・・
そして、養護学校義務化(1979年)から29年が経ち、昨年(2007年)から「特別支援教育」が始まった・・・。
『障害児の高校進学2001年
<千葉県版>』より
編集後記
「普通学級にはいない」ことにされていた子どもたちを、「ここにいるよ」と訴えるために作ったのが最初の「千葉県の統合教育」でした。あれから7年。「千葉県の統合教育」もこれで4冊目になりました。今回、手記を寄せてくれた人のうち16人が7年前の本にも名前があります。すでに高校を卒業した人、いま高校生になっている人を含めると、26人の名前を1冊目の本の中に見ることができます。
私たちは、高校だからと特別な思いがあるわけではなく、ただ「この子たちはここにいる」と言い続けてきただけなのだと思います。
私は個人的には、この本を天国の金井康治に届けたいと思いながら作りました。千葉の仲間で、康治を知っている人は多くないかもしれません。でも、金井康治は、地域の普通学級への道を切り開いた一人で、さらに障害児の高校進学を切り開いた一人で、それより何より私の中で忘れられない友人の一人でした。
17年前、大学で卒論を書いているとき、小学校に入ることを拒否された子どものこととして金井康治の名前を上げました。そのとき、担当の先生から「その子は今どうしているんですか?」と聞かれました。私は答えられませんでした。転校拒否、自主登校、という文字を読んだだけで、康治に会ったことはありませんでした。答えられない自分がものすごく恥ずかしかったのを覚えています。文献だけで卒論を書くことより、いま生きている一人の子どもの方が大切なんじゃありませんかと、問われているように感じました。康治に出会うのに、それからさらに3年ほどかかりました。写真で見ただけの「康ちゃん」は、すでに高校を目指す若者になっていました。私のなかで、障害があっても地域の普通の学校に行きたい思いも、高校に行きたいという思いも、なんの段差もなく感じられました。そうして、私がいまいるここにつながっている道を開いてくれたのも康治だったのだと思います。
この本を作ろうと思ったとき、私は昌生くんと江美ちゃんの卒業証書をそのまま載せたいと思いました。康治が、唇を噛む思いで押しつけられた高校の卒業証書や無念な思いのいくらかを私は知っています。でも、いま千葉では笑顔で、悔し涙ではなく、嬉し涙でもらえるあたりまえの卒業証書があることをここに載せたいと思いました。だから、やっぱり私はこの本を天国の金井康治に届けたいと思います。
笑顔で出会えるはずの子どもと子どもを、誰にも分けさせたりしないように、私は私のできることを続けていきたいと思います。
2000年9月11日 金井康治の一周忌に 佐藤陽一
Posted by 会員
at 03:20
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