2008年07月09日
『花梨だよりNO10』 ー多田羅洋介2006年秋ー⑤
2006年3月、一浪後みごとに合格した海ちゃん&お母さんです。
<10年目の高校入試>
昨年2005年10回目の受検はしなかった。高校の門をたた叩き続ける先駆者としての存在意義は徳武海さんらの受検で役割を終えていた。何より見込みのないまま受検することに洋介が疲れていた。本人のヤル気、知的障害児の運動をする時、いつも問われる本人のやる気がなくなっていた。(でも!)
中学時代、夏休みも学校へ行きたがる洋介だった。風邪が長引いて1ヶ月近く寝たきりの半病人生活だったのに、2日間、入試の試験会場で受験生をした洋介だった。
2006年後期入試2~3日前から続いた絶え間ない発作で入院までした身だったけれど、「障害児を普通学校へ・香川」が把握していた子どもたちの全員が不合格になった連絡を聞いて、「受ける?」という親の”願い”に答えてくれた”ように”思えたので、定時制2次募集に応募した。 洋介に合格してほしいというよりは「みんな2次募集も受けて欲しい」「今年は誰かが合格する」という予感があって、みんなを励ます意味で願書を提出した。洋介は入試前日朝、退院した。絶え間ない発作が奇跡的に収まり、再びあの洋介が復活した。
10年間、受検し続けたのは洋介、君のためというよりはひょっとすると私たち親のためだったかも知れないね。ご苦労様、有難う。目に見える成果は得られなかったけれど、ここまで頑張れたのは君のおかげだ。
これまで全国連の全国交流会や高校進学の集会に受検生の親として参加し続けた10年、意欲やら励みや、悔しさや情けなさ、うらやましさ、絶望、怒り、、それでも頑張らなっくちゃと年ごとに増す負の感情を押し殺し、頭の中がグチャグチャになりながらも、私たちの足りないものは何か、今できることは何か、問い続けた10年だった。
さて、1年浪人生活を経て、県教育行政に対して知的障害児にも高校生活を!と訴えた結果、今春、高校生になった徳武海さんは初めて知的障害児として受検に合格した仲間です。
徳武さんは多田羅洋介君の10年があったからこその合格だと謙遜するが、何より本人やお母さんの頑張りの結果だと思う。
運動の輪の小ささは相変わらず、本人や親の頑張りが要求された。だから徳武さんたちは中3の秋、「高校へ行きたい」という長文を中学校の先生方に配り、理解を求め、それは高校へも届けられたという。一浪中の昨年は頻繁に県教委に出向き、何度も要望書を提出、その回答を求め、受検時の特別措置の内容を詰めるというところまで持っていきました。
そもそも特別措置の原点は本人のハンディをカバーされる形の配慮がなされることによって、何の配慮もなくそのハンディ故に不合格になるかもしれない状況を減らす=少しでも合格する可能性を高めることにあるはずなのに、知的障害のある子に対して別室で受検さることで足りると考えることに無理があるということを、昨年、初めて県教委に認めさせることができたことが、入試の壁突破の最大の成果だったと思う。洋介の10年でこの壁を突破できなかったのだが、昨年、非公開ではあるが、洋介に対して謝罪めいた発言があったり、本人や保護者の気持ちも分かるという発言があり、底辺が少し動き始めたのかなとは思っている。
Posted by 会員
at 01:41
│Comments(2)
わたしは「ポッポ屋」の娘である。
父は大正生まれで、今でも私よりズーと頭がいい。
父は管理職だった。いろいろ頼まれることがあったらしい。
しかし、父は私に言う。
「お金より名が惜しい。」
いつの時代から、名よりお金の方が大事な管理職が増殖していったのだろう。それも、教育界で!
「赤信号みんなで渡れば恐くない!」精神か!!
父は主流ではなかった。しかし、
父の上司は父にこんな色紙を贈ってくれた。
『○○君、風を通そう 』
参加予定の課が、障害福祉課・学校教育課・子供未来課・保育課・生涯学習課となっているので、高松市との話し合いかもしれないけど文面が『行政との話し合い』となっているのだから、思い切って県教育委員会宛の質問や意見を言ってもいいんじゃないかなあ。
高松市在住の人でなくても参加できるんじゃないかなあ―聞くことしか許されないかもしれないけど。
私は私で質問事項考えてみる気だけど、他の人も考えてみてはいかがですか。
『高松市手をつなぐ育成会』の、メールアドレスはtakamatsu07ikuseikai@yahoo.co.jpです。メール登録を一旦しないと受け付けてくれないみたいですけど…
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