2008年03月22日

「こうこういきたい」という子どもの思いを伝えるために

「こうこういきたい」という子どもの思いを伝えるために発表の朝、友人が持ってきてくれた庭に咲いた椿の花を小学校のコウチョウセンセイだった夫の伯父からいただいた花瓶に活けました。

ーワニなつノート(佐藤陽一さんのブログより)-

 『母よ!殺すな』1978年に出版された、脳性マヒ者である横塚晃一さんの本を読んで~ブック

私達障害者の間でどうしたら理解して貰えるかとか、そんなこといったら理解して貰えなくなるとかいう言葉をよく聞くのですが、
これ程、主体性のない生き方があるでしょうか。大体、この世において四十六時中理解して貰おうと思いながら生きている人がいるでしょうか


 小説家にしろ彫刻家あるいは絵かきにしろ
 それぞれの分野で自分の世界をつくっております。
 それは理解して貰うというよりもその作品をして己を世に問う、
 あるいは強烈な自己主張をたたきつけるということではないでしょうか。

 
私達脳性マヒ者には、
他の人にはない独特のものがあるということに、気づかなければなりません。
そして、その独特な考え方なり物の見方なりを集積して、
そこに私達の世界をつくり世に問うことができたならば
これこそ本当の自己主張ではないでしょうか




障害者運動とは障害者問題を通して「人間とは何か」に迫ること。つまり人類の歴史に参加することに他ならないと思う

横塚さんがこの言葉を書いたのは、私が10才のとき。
8才で分けられる側に入れられることをかろうじて免れて、
ほっとして、そのことも忘れていた10才のころ
この言葉は書かれた。

私は分かれる側には行かずにすんで、
分ける側に残ることができて、安心していたのだろう。
でも、私は19の時からずっと横塚さんの言葉にうなずいてきた。
 
分ける側の言葉にはひとつも背けない。
私は分けられる側で差別されている子どもたちの側にいたい。

たとえば、寝たきりになっても、呆けても、
人間を大事にするために、
この社会は介護保険を作ったりもするじゃないか。

人生の最後に苦労している人の思いを大事にしようとするんだから、
これから人生をはじめる子どもたちに、
小学校、中学校、高校の生活くらいは保障しろと思う。


「0点でも高校へ」は、
障害児の高校進学の問題を通して、
「人間とは何か」に迫ること。
つまり人類の歴史に参加することなのだ。




「こうこういきたい」という子どもの思いを伝えるためい、「多くの人が納得する論理はいらないと」と私も思う。


地域社会で生きてきた15歳の子の務めを全うした成長の証としての言葉であって、それ以上でもいかでもない。
義務教育をちゃんと終えた子どもの言葉。
小中学校を普通学級で過ごしたことで、当たり前に手に入れた宝物の一つが、この言葉だ。
「こうこういきたい」は精一杯の、そして、世界一の表現と論理だ。
「こうこうせいしたい」は世界一の論理だ。
他人を説得する論理も言葉も組織も持たないからこそ、
一人の15才の障害児なのだ。


あとは、社会がそれをどう受けとめるかだ。


点数が足りない?
それは視力が足りない、
聴力が足りない、
知能が足りない、という差別でしかない。

能力差別と子ども差別が人類最後の課題だ。
「0点でも高校へ」とは、その両方の鍵なのだ。




Posted by 会員  at 02:04 │Comments(0)

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